日産・スカイライン

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スカイライン (SKYLINE) は日産自動車が製造・販売している乗用車である。

概要

1957年に富士精密工業(のちのプリンス自動車)の主力車種として生産を開始。1966年にプリンスが日産自動車と合併した後も車名が引き継がれ、長期に渡って生産されてきた。

車名は「山並みと青空を区切る稜線」に由来する。2007年3月21日、名付け親の桜井眞一郎がこの名を思いついた場所である群馬県草津町の山小屋「芳ヶ平ヒュッテ」に、生産50周年を記念して「スカイライン命名の地」のプレートが設置される。

ボディラインナップはこれまで、4ドアセダンと2ドアクーペの2タイプであったが、2009年7月13日クロスオーバーSUVが加わり、3つのタイプになった。過去には5ドアハッチバック、ステーションワゴンライトバンなども存在した時期もあるが[1]日産自動車の類似車種統一化政策等により、他の同クラスと統合されスカイラインとしての製造は廃止となっている。

国内での位置付けはアッパーミドルクラス向けのハイオーナーセダンであるが、過去に自動車レースで用いられた歴史があり、製品の性格付けもスポーティーなイメージが強調され、広告等では過去のレースシーンとの関連が強調される事も多い。しかし、スカイラインの中では2代目の"GT"とそれ以降の"GT-R""RS"グレードは実際にレース色が強いが、その他の車種は実際にはそれほどレース色が強い訳ではない。

GT系は愛称として「スカG」(スカジー)と呼ばれることも多い。

長野県岡谷市鳥居平やまびこ公園内には、自動車博物館としては異例の単一車種の博物館「プリンス&スカイラインミュウジアム」がある。

C10型からR32型までは、型式ごとにCMキャッチコピーなどから採られた愛称(通称)を持つ。

沿革

初代 ALSI型(1957年-1963年)

1957年4月
富士精密工業(当時)より発売されたALSI-1型がスカイラインの初代となる。当時の日本における小型乗用車規格に合わせ、当初は1500ccでの発売となった。グレードはスタンダード(ALSIS-1型)とデラックス(ALSID-1型)の2種類。ボディスタイルはプリンスの自社オリジナルで、アメリカ資本の欧州車を思わせるボリューム感のあるデザインだったが、ヨーロッパのモーターショーでは同時期発表の中型セダンであるシムカ・アリアーヌからのデザイン盗用を疑われたこともある。
構造面は、やや旧弊化した在来プリンス車から完全に一新され、低床バックボーン・トレー式シャーシを持つセミ・モノコック構造となった。前輪は前年のプリンスで既に採用されていたダブルウィッシュボーン独立懸架、後輪は日本最初のド・ディオンアクスルを採用し、先進性をアピールした。搭載するエンジンは直列4気筒OHV・1484ccのGA30型で、プジョー系の設計の発展形であるプリンス在来型エンジンの改良であるが、60psの出力は、競合するトヨタや日産の同クラス車を上回るものであった。カタログスペックでは当時の日本製1500cc車最速の最高速度125km/hを称した。
他の国産車に先駆け、グリスアップの不要な無給脂シャーシを採用し、メンテナンスフリーをうたったことも重要である。
1958年
マイナーチェンジ。
1958年10月
第5回全日本自動車ショウ(後の東京モーターショー)に、排気量拡大型の試作車「スカイライン1900」(BLSI-1型)を出品。この試作車は当時の皇太子明仁親王(現・今上天皇)の愛車となり、明仁親王が自ら運転したことでも知られる。
1959年2月
前年の全日本自動車ショウに出品した1900ccモデルを「グロリア」(BLSIP-1型)として発売。直列4気筒OHV1862cc GB30型エンジンを搭載する。
1959年7月
第1回日本アルペンラリーに出場し、優勝および総合3位を飾る。優勝ドライバーは自動車ジャーナリストの古我信生。
1959年10月
エンジン出力を70ps(馬力)へ向上し、ALSIS-2型(スタンダード)、ALSID-2型(デラックス)となる。
1960年2月
マイナーチェンジ。丸型2灯テールランプに変更されたほか、デラックスのみ4灯式ヘッドランプを採用する。
1960年10月
スタンダードがマイナーチェンジにより4灯式ヘッドランプに変更。
1960年秋
第42回トリノショーにイタリアのカロッツェリアジョバンニ・ミケロッティにデザインを依頼した「スカイライン・スポーツ」(BLRA型/R21B型)を出展。
1961年9月
「1900デラックス」(BLSID-3型)追加。直列4気筒OHV 1862cc GB4型を搭載する。10月、「1900スタンダード」(BLSIS-3型)追加。
1962年4月
前述の「スカイライン・スポーツ」(BLRA-3型/R21B型)を追加。日本初のスペシャルティカーといわれる。つり目4灯ヘッドライトの特徴的なスタイル、クーペとコンバーチブルの2タイプの設定等、注目を集めたが、ボディの殆どがイタリアの職人の指導によるハンドメイド[2]で高コスト・高価であり、また市場も十分に育っていなかったため、製造台数は60台ほどでビジネスとしては成功したとはいえない。特徴であるつり目ヘッドライトは、板金型がハンドメイドゆえに誤差があり、左右で角度が若干違っている。搭載するエンジンはGB4型。同年の第4回日本アルペンラリーに出場し、7位完走を果たす。テレビドラマ「ウルトラQ」の劇中で使用されていた。
当時の価格はDXが120万円、クーペが185万円。クーペの価格は当時のブルーバードの3倍に相当した。総生産台数はクーペ75台、コンバーチブル25台である。
1962年9月
「スカイラインスーパー」(S21D型)発表。4灯式ヘッドランプをもつフラットデッキスタイルとなる。搭載するエンジンは直列4気筒OHV 1862cc G2型(91ps/4800rpm、15.0kgm/3600rpm)。

プリンスにおける乗用車派生型の商用モデルは、1957年に旧型プリンスセダンの設計をベースに開発された「プリンス・コマーシャル」が最初であるが、1959年にはスカイラインの派生モデルである「スカイウェイ」にモデルチェンジした。ライトバンとピックアップが設定されたが、ライトバンには前席のみ2ドア仕様の他、1960年に車体左側のみに後席ドアを追加した3ドア型が追加された。1961年にはスカイライン同様に1900ccモデルも追加されている。

2代目 S5型(1963年-1968年)

1963年9月
S50D-I型発売。1900cc以上の上級市場はグロリアに譲り、1500ccクラスの量販車市場を拡充するために、G1型直列4気筒OHV1484ccエンジンを搭載する、小型ファミリーセダンとして開発・投入された。「スポーティーなイメージの強いミドルセダン」というその後のスカイラインのイメージの源流となったモデルである。
モノコック構造を採用したボディのバリエーションは4ドアセダンとステーションワゴン(W50A-I型)の2種類。当初、バンはスカイウェイ(V51A-I型)としてラインナップしていたが、後のマイナーチェンジでスカイラインバンとなった。当時の欧米自動車業界で本格化しつつあったメンテナンスフリー化を積極的に進め、4万kmまたは2年間保障の封印エンジン[3]や、1年間3万km無給油シャシーなどが話題を呼んだ。
1963年10月
第10回全日本自動車ショーに、S50型をベースとした2ドアクーペ「スカイライン1900スプリント」を参考出品。好評を博した。
1964年4月
スタンダードグレード(S50S-I型)追加。
1964年5月
第2回日本グランプリGTクラス出場のため、より強力なグロリアスーパー6用のG7型直列6気筒OHC1988ccエンジンを、ボディのフロント部を200mm延長して搭載したスカイラインGT(S54A-I型)を開発。ホモロゲーション用に100台を生産し販売した。
1965年2月
レースモデルと同等にウェーバー製のキャブを3連装し、125psを出力したスカイライン2000GT(S54B-II型)発売。
1500DXに、フロアシフト追加。
1965年5月
1500DXに、スペースフロー(AT)が追加。
1965年9月
シングルキャブ仕様(105ps)の2000GT-A(S54A-II型)が追加。2月に発売されていた2000GTは「2000GT-B」となった。このとき、GT-Aは青のGTエンブレム(通称;青バッヂ)、GT-Bは赤のGTエンブレム(赤バッヂ)を装着した。
1966年7月 
デラックスとスタンダードの中間グレード的存在の「デラックス・ファイン」という車種が追加された。このモデルは、スタンダードをベースにしたボディに、グリルは、デラックスの物を使用し、ボンネットには、「P」と書かれたエンブレムじゃなく「PRNICE」と書かれた、エンブレムを使用した。
ちなみにラジオ、ヒーターは標準装備で、販売期間が同年10月までの3ヶ月だったので、知名度も低く生産台数が少ない。
1966年8月
プリンス自動車が日産自動車と合併したため、車名をニッサン・プリンス・スカイラインに変更。
1966年10月
マイナーチェンジ。グリルが横桟のデザインになる。
1967年8月
G1型に替わり、G15型直列4気筒OHC1483ccエンジン(88ps)を搭載するS57D型が登場。6万km無給油シャシーとなった。

当時の価格はGTが86万円であった。

3代目 C10型(1968年-1972年)

通称:ハコスカ

1968年8月
S5#型からのフルモデルチェンジ。
日産との合併後初めて新規発売されたモデルである。4ドアセダン(C10型)、エステート(WC10型)、バン(VC10型)が発表された。
エンジンはプリンス製の直列4気筒OHC1500cc G15型を搭載する。
足回りはフロントがマクファーソンストラットとコイルスプリングの組み合わせに変更された。リアはリーフリジッドである。
グレード展開は、スタンダードとデラックスのみであったが、デラックスにはシート形状とトランスミッションにより、ファミリーデラックス(3速コラムシフトベンチシート)、ツーリングデラックス(3速コラムシフト・セパレートシート)、スポーティデラックス(4速フロアシフト・セパレートシート)の3種のほか、女性仕様の「Lパック」がメーカーオプションとして用意され、バリエーションを確保した。
1968年10月
直列6気筒エンジン搭載のGT(GC10型)を追加。S5♯型同様、バルクヘッド前方を延長しているが、S54型と違い、開発当初から6気筒化を配慮した設計構造とデザインを備えており、6気筒モデルの方がバランスの整った外見となった。
S54型に搭載されていたプリンス製G7型エンジンに代わり、日産製直列6気筒、OHC、2000ccのL20型(シングルキャブ)を搭載する。発売当初はかまぼこ型シリンダーヘッドと呼ばる後年主流となるL系(全排気量)エンジンとは形状が異なる物が搭載された、最高出力は105馬力。1969年以降日産のL20型エンジンを搭載する全車種で新設計のシリンダーヘッド搭載エンジンに順次切り替わり、115馬力(レギュラーガソリン仕様)となった。新旧を区別するため、新型をL20Aと呼称(車検証上の原動機の型式に変更はない)した。サスペンションは、フロントは4気筒同様のマクファーソンストラットであるが、リアはセミトレーリングアームとコイルスプリングへ変更され、4輪独立懸架となる。
同月、第15回東京モーターショーに、「スカイラインGTレーシング仕様」が出品される。翌年発売されるGT-Rのコンセプトカーである。
1969年2月
プリンス系列の技術陣によって開発された直列6気筒4バルブDOHC2000ccS20型エンジンを搭載したGT-R(PGC10型)を追加。
カタログにはレーシング直系を印象付けるため、R380A-IIIも登場する。外観でのGTとの相違は、拡大されたトレッドに対応するため、リアフェンダーのサーフィンラインがカットされている他、前後ウインドシールドをはじめとした全てのガラスが青色の熱線吸収タイプでは無く無色透明、リアの曇り止め用プリント式熱線も無いこと、モール類が装備されない点などである。
1969年8月
1500のマイナーチェンジおよび1800(PC10型)を追加発売。
フロントグリル、テールランプのデザイン変更。3分割式のフロントグリルが一体成型のワンピースグリルとなった。細部ではラジオアンテナが左フロントフェンダーから右Aピラーへ位置変更されるなど外観の変更が実施された。
1800はローレルに先行搭載されていたプリンス系の直列4気筒OHC1800cc G18型(100ps)を搭載。1800はエステートにも設定された。尚、「愛のスカイライン」のCMキャンペーンはこの時スタート。存続が危ぶまれていたが、一躍、日産の中核であるブルーバードをしのぐ人気を得るようになっていく。
1969年10月
GTシリーズをマイナーチェンジ。こちらも一体成型のワンピースグリルとなり、テールランプの意匠変更などが実施された。
1970年6月
2000GTにニッサンマチック・3速ATを追加発売。
1970年10月
マイナーチェンジおよび2ドアハードトップモデルを追加発売。
新意匠のダッシュパネルなど室内の大幅変更が施されたほか、フロントグリル、テールランプや前後のバンパーなど外観の変更。
2ドアハードトップモデルを1800(KPC10型)および2000GT(KGC10型)に追加。GT-Rはセダンが廃止されハードトップ(KPGC10型)に移行された。ハードトップはセダンに対し70mmホイールベースを短縮したことにより、運動性能が向上した。GT-Rの当時価格は150万円。
1971年9月
マイナーチェンジおよび新グレードを追加発売。
フロントグリル、リアガーニッシュがハニカム調のデザインに変更されたほか、シート縫製基調など細部の変更が施された。
1500を88ps→95psに 1800を100ps→105psにパワーアップ。
ハードトップGT-Xを追加。エンジンはフェアレディZなどに採用されていたL20SUツインキャブレター仕様で最高出力は125ps(ハイオクガソリン仕様は130ps)、その他のGTとの相違点は部分クロス張りのシートやパワーウインドウなど。エンブレムはGTが青色、GT-Rは赤色なのに対し「金色」。
セダン1500/1800スポーティGLおよびハードトップ1500デラックス(KC10型)を追加。ハードトップ1800はスポーティGLとなった。
1972年3月
セダンGT-Xを追加発売。
1972年5月
2000GTシリーズは5MTが標準装備化された。
1972年
モデル末期頃に日産車統一仕様の一環として5MT車の左テールランプ下部に「5speed」のエンブレムが追加取り付けされた、次代C110型へのフルモデルチェンジ間際であったため取り付けられた車輌は極めて少ない。

スカG伝説もあり、21世紀初頭現在でも、いわゆる「旧車」の中で特に知名度や人気が高いモデルの一つである。この時代のクルマの中で、最も実動車(現役車)が多いと思われる。

4代目 C110型(1972年-1977年)

通称:ケンメリ、ヨンメリ(セダンモデルのみの愛称)

1972年9月
C110型にモデルチェンジ。ボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアハードトップ、およびワゴン/バンを有し、先代同様、セダン/ハードトップにはホイールベースを延長し6気筒エンジンを搭載したGT系の設定がある。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通。セダンとハードトップのホイールベースを同一化。
サーフィンラインのプレスラインは、ごく浅く、プレーンな面構成となった。2ドアハードトップは太いCピラーを特徴とし、ワゴン/バンはクオーターウインドウを廃し、スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーにデカール式のピンストライプが設定されている。
搭載するエンジンはG15型をボアアップした直列4気筒OHC1600ccのG16型、タクシー教習車用のG16LPG仕様(販売は1975年まで)、先代より継続されたOHC1800ccのG18型、およびL20型の4機種。足回りはフロントがマクファーソンストラット、リアは4気筒モデルがリーフリジッド、6気筒モデルがセミトレーリングアームとコイルスプリングの組合せである。
4ドアセダンのGT系、および2ドアハードトップの全グレードのテールランプが丸型4灯式となった。これは、以後スカイラインのアイデンティティの一つとして、10代目のR34まで受け継がれていくことになる。
この代から警察庁パトロールカー警らパトカー)として導入された。当時の警察の規定により、エンジンは6気筒(L20S型)、内装は血液汚れなどの手入れの楽なビニールトリムとなった専用モデルとなっている。警らパトカー仕様はR32型まで設定されている。
C110型の輸出車名は「ダットサン・240K」。その名の通りエンジンは2400ccに拡大されている。欧州等一部地域にはショートノーズ4気筒1800cc搭載車を「ダットサン・180K」として輸出された。
通称は、広告キャンペーン「ケンとメリーのスカイライン」から。これは、先代のC10型の時代に展開された「愛のスカイライン」キャンペーンを継承、発展させたもので、「愛のスカイライン」のキャッチコピーも引き続き使用された。内容としては、若い男女のカップルがスカイラインに乗り、日本各地を旅するというシリーズもののCMで、この二人の名がケンとメリーである。性能の高さや、レースでの栄光といった旧来のスカイラインの硬派なイメージとは異なるソフトなイメージのCMシリーズであったが、当時の世相ともマッチしてこのCM自体は人気を博した。
4ドアセダンはヨンメリと呼ばれる事もあるが、これは、「4(ヨン)枚(ドア)のケンメリ」の略である。
1972年10月
第19回東京モーターショーに「ハードトップ2000GT-Rレーシング仕様」を出品。
1973年1月
「ハードトップ2000GT-R」(KPGC110型)を追加。先代同様S20型エンジン(1989cc 160ps/7000rpm、18.0kgm/5600rpm)を搭載し、専用ラジエータグリル、前後オーバーフェンダー、リアスポイラー等を装備する他、先代では標準でなかったラジオが標準装備とされている。排出ガス規制の影響もあり、わずか197台が生産され、うち195台が市販されたのみで終了している。残りの2台はレースカーの試作車である。レースに出場することはなかったが、旧車趣味界においても希少なGT-Rとして知られている。この後、R32型までGT-Rは設定されていない。製造台数が197台となった理由には、三国工業から購入したS20エンジン用ソレックスキャブレターが、197台分だけ残っていたためである。ただし、生産台数には諸説あり、試作車も含めて少なくとも200台以上が生産されたと思われる節が見受けられる。
1975年5月
マイナーチェンジ。4気筒モデルのエンジンは、プリンスが開発したG16型、G18型から、日産が開発したL16型、L18型に変更された。
1975年9月
50年排出ガス規制 (A-) 対応の、電子制御燃料噴射(ニッサンEGI)を採用するL20E型を搭載する「セダン/ハードトップ2000GTX・E」を追加。パワーステアリングをオプション設定。
1975年10月
セダン/ハードトップの1600・1800・2000(L20S型搭載車)系をNAPSにより50年排ガス規制 (A-) に適合。同時にマイナーチェンジ、フロント/リアのデザインが変更される。最下位グレードがセダン1600DXとなりLPG営業車とワゴンが廃止される。
1976年2月-3月
GT系のL20E搭載車が、昭和51年排ガス規制 (C-) に適合。翌月には1600も昭和51年規制に適合。
1976年6月
GT系のL20S搭載車、1800系が昭和51年規制に適合。
1977年2月
1800GLエクストラと2000GT-Lエクストラ、2000GT-ELエクストラを追加。

1980年代、手頃な価格とあいまって若者を中心に人気があったこのモデルは、姉妹車のローレルとともに暴走族の改造車(族車)の定番になり、テールライトの中心寄り2つをパテ埋めする「ワンテール仕様」や、ウインカーやグリルをローレルのものに交換する、テールライトをチェリーのものに交換するなどといった、当時の日産車同士のパーツの互換性を活かした多彩な改造が流行した。

5代目 C210型(1977年-1981年[4]

通称:ジャパン

1977年8月
C210型発売。通称は、自ら「日本の風土が生んだ名車」であると名乗った広告キャンペーンのキャッチコピー「SKYLINE JAPAN」から。プラットフォームは日産・ローレル(C230型)と基本的に共通。外観は先代のキープコンセプトとされた。ボディバリエーションはC110型と同様、4ドアセダン、2ドアハードトップおよびバンの3系列を設定し、セダンおよびハードトップには直列6気筒エンジン搭載車と直列4気筒エンジン搭載車が用意され、ホイールベースはそれぞれ2,615mm, 2,515mmとされた。バンは直列4気筒エンジンのみの設定であった。
搭載するエンジンは直列4気筒OHCがL16S型(1595cc)、L18S型(1770cc)、L18E型の3機種。直列6気筒OHCがL20S型(1998cc 115ps/5600rpm、16.5kgm/3600rpm)、およびL20E型(130ps/6000rpm、17.0kgm/4400rpm)の2機種。
発売当初は自動車排出ガス規制の影響を受け、DOHCターボも設定されなかった。
グレード体系は直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TI(ツーリング・インターナショナル)シリーズ」の2系列となった。GTとTIとではラジエーターグリルおよびテールランプの意匠が異なる。ヘッドライトは、前期型はGT系、TI系とも丸目4灯式であった。後期型ではGT系は角目2灯式となったがTI系は丸目4灯式であった。テールランプは、GT系が丸型4灯式なのに対し、TI系は2段重ねの角形4灯式になる。サーフィンラインはエッジのあるブリスター形状となり、リアトレッド拡大に寄与している。足回りはフロント側がストラット式。リア側は4気筒モデルが4リンク式、6気筒モデルがセミトレーリングアーム式の組合せ。GTバッジは3種類となり、GTおよびGT-E・Lが青バッジ、GT-E・Xが金バッジ、GT-E・Sが赤バッジとされた。GT・LおよびGT-E・Xはデジタル時計が装備され、それ以外のグレードはアナログ時計が装備された。GT-E・Sにはリアワイパーおよびヘッドランプクリーナーが標準装備された。また、GT-E・SおよびTI-E・Sには4輪ディスクブレーキおよびリアスタビライザーが装備された。
1978年3月
2ドアハードトップ2000GT-E・Lおよび1800TI-E・Lに特別仕様車「ブラッキー」を設定。アルミホイール、70%扁平ラジアルタイヤ、オーバーヘッドコンソール、およびヘッドランプクリーナーを装備した。
1978年8月
L16/L18型エンジンを、急速燃焼方式(ツインスパークプラグ)を採用する直列4気筒OHC Z16/18型エンジンに変更。L20型エンジンについても一部変更が施され、昭和53年排気ガス規制に適合し、車両型式が211型となる。同時に「1800TI-E・X」を追加。
1979年7月
マイナーチェンジにより前後の意匠変更がなされる。GTシリーズは角型異型2灯ヘッドランプとされ、TIシリーズは丸型4灯ヘッドランプを継承したが、ラジエーターグリルが変更された。
1979年8月
ワゴン(WPC211型)追加。Z18型エンジンを搭載する。また、バンが昭和54年排出ガス規制対応及び一部車種にサンルーフ、本皮シート、テクニクスカーコンポがオプション設定される。
1979年11月
2000GT-Eに特別仕様車「スーパーGT」を設定。セダンはミケロッティマグネシウムホイールクロモドラ製)、ハードトップはカンパニョーロホイールを装備した。
1980年3月
2000GT-E・Sおよび2000GT-E・Xに特別仕様車「ゴールデンカー」を設定。専用のゴールド塗装のほか、E・Sはパワーサンルーフ、カンパニョーロマグネシウムホイールを装備し、E・Xはミケロッティマグネシウムホイール、ミシュランタイヤを装備した。
1980年4月
ターボエンジンを搭載したモデルを追加。L20E型エンジンにターボがプラスされ、パワー&トルクは145ps/5600rpm、21.0kgm/3200rpmを搾り出した。発売当時の価格は165.8万円。「セドリック/グロリア[5]、「ブルーバード[6]に次ぐ日産において3車種目のターボ車であり、日産初のターボとATを組合わせた車種である。同時にノンターボの「2000GT-E」、「2000GT-E・S」が廃止となる。
1980年6月
直列6気筒OHC LD28型ディーゼルエンジンを搭載する「セダン/ハードトップ280D GTシリーズ」(EGC211型)、直列4気筒OHC Z20E型エンジンを搭載する「2000TIシリーズ」(UC211型)、100万円を下回る最廉価版「1600TI-A」(BC211S型)、およびバンに直列4気筒OHC LD20型ディーゼルエンジン搭載車を追加。280D GTはこの当時の国産ディーゼル乗用車としては最速を誇っていた。また、2000TIはリアサスペンションがセミトレーリングアーム式独立懸架となり、4輪ディスクブレーキを装備するなど4気筒エンジンながらGT系に匹敵する高度なメカニズムを持つ。動力性能は6気筒NAとほとんど変わらず、重量(特に前輪荷重)が軽いこのモデルはC210型中の「ベストハンドリングカー」との声もある。

1980年代、先代モデルのケンメリと同じく暴走族の改造車としても人気を得ていた。ケンメリ同様、ワンテール化やライト、グリルの移植が流行していた。

宮城県登米市にある警察資料館には実際に宮城県警察が使用していたC210型のパトカーが展示されており、現存する警らパトカーとしては最も古い。

6代目 R30型(1981年-1985年[7]

R30スカイライン・ハードトップ

通称:R30(アールサンマル)、ニューマンスカイライン、鉄仮面(後期型RSの通称)

1981年8月
R30型発売。
アメリカの俳優ポール・ニューマンが広告キャラクターであったため、「ニューマン・スカイライン」と呼ばれた。グレード体系はC210型同様の直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TIシリーズ」の2系列だが、ホイールベースは1種類となった。ボディバリエーションは、4ドアセダン・2ドアハードトップ・5ドアハッチバック・後に追加されるライトバン(エステート)の4種。
ハッチバックはスカイライン史上初である。現在は常識となっているテンパータイヤは、このR30型ハッチバックが日本初採用であり、スペアタイヤに空気圧減圧警告灯なども装備されていた。搭載エンジンは、Z18S型(エステート・TI)、Z18E型/Z20S型/Z20E型(TI)、L20E型/L20ET型/LD28型(GT)の7機種。
1981年10月
直列4気筒4バルブDOHC FJ20E型エンジン(150ps/6000rpm、18.5kgm/4800rpm)を搭載する「2000RS」(DR30型)を追加。GT-Rの再来と期待され、営業面からGT-Rのネーミングに強い要望があったが、搭載エンジンのFJ20E型が直列4気筒であるがために、RSという新しいシリーズとなった。RSは4気筒モデルであるが、GT系と同じ丸型4灯式テールランプ。同時にZ18S型を搭載する「エステート」が追加。
1982年10月
一部変更。「TIシリーズ」の1800cc Z18型エンジンを直列4気筒OHC CA18型/CA18E型エンジンへ変更(FJR30型)。「TI Lエクストラ」および「GT Xエクストラ」を追加し、「2000RS」に60%扁平タイヤを装着。
1983年2月
FJ20E型にターボチャージャーを追加した、FJ20ET型(190ps/6400rpm)を搭載した「2000ターボRS」(DR30JFT型)を追加。歴代スカイラインのどれよりも高出力であったことから「史上最強のスカイライン」というキャッチコピーが用いられる。また、日産は、このモデルにてハコスカ以来となるワークスとしてレースに復帰。
1983年8月
マイナーチェンジにより後期型へ。前後の意匠変更、大型バンパーの採用等を行う。RSの後期型は薄型ヘッドランプ、ラジエーターグリルレスのデザインにより「鉄仮面」と呼ばれた。パワーランバーサポート・パワーステアリング・パワーウインド・カセットコンポを装備した豪華仕様「2000ターボRS-X」(DR30XFT型)を追加。
1983年10月
日本初のAT専用グレードであるNAの豪華仕様「2000RS-X(DR30XFE型)」、および15インチアルミホイール、ブロンズガラス、専用ステッカーを装備する「2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン」(HR30JFT型)を追加。
1983年11月
日産50周年記念限定車「50アニバーサリー バージョン」を設定。これは2ドアハードトップ2000ターボRS-Xをベースに、メッキドアミラー、専用エムブレム、「ハイタッチモケット」と呼ばれる専用の内装(後にオプション設定)を備え、白のほかにガンメタ/赤茶ツートンの専用ボディカラーも用意された。
1984年1月
「2000GT-E・Xパサージュ」(HR30GAE型)を追加。
1984年2月
インタークーラー搭載モデルである「2000ターボインタークーラーRS/RS-X」(DR30JFS/DR30XFS)を追加。このモデルは「ターボC」と呼ばれる、RS-XターボCでは、前述のハイタッチモケット仕様の内装が選択可能となった。インタークーラー付きFJ20ET型エンジンはグロス表示ながら205ps/6400rpm、25.0kgm/4400rpmを発生させ、いまだに根強いファンを持つ。
1984年8月
エンジンの点火系を変更した「プラズマスパークシリーズ」を発売。高パフォーマンスのエンジンでのイージードライブを可能とした「2000ターボインタークーラーRS-X A/T」(DR30XAS型)、および「2000ターボGT-E・II」(HR30HFT型)を追加。
1985年8月
モデルチェンジによりR31型に移行するが、5ドアハッチバックは廃止となる(12代目にクロスオーバーとして再登場)。エステート(バン)は1990年2月まで継続生産されるが、こちらもこのモデルを最後に廃止された[8]

尚、この形式をもって、カタログにおいて「開発者」である「桜井眞一郎」のコメントは登場しなくなっている(「R30」でも「桜井眞一郎」の記述は何処にも無く、あくまでも「開発者」とされている)。

7代目 R31型(1985年-1989年[9]

通称:7thセブンス)、R31アールサンイチ)、都市工学スカイライン

ボディバリエーションは、4ドアセダン・4ドアハードトップ・2ドアクーペ・ワゴンの4種。

1985年8月
R31型発売。プラットフォームは日産・ローレル日産・レパードと共通。当時のハイソカーブームに便乗し、発売当初はスカイライン初の4ドアハードトップモデルと4ドアセダンしか設定が無かったが、翌年にはスポーツモデル(2ドアスポーツクーペ)が追加された。メカニズム面では、ケンメリGT-Rに搭載されていたS20型エンジン以来の直列6気筒4バルブDOHCエンジンで、2ヵ月後にZ31型フェアレディZに搭載された180ps(発売当初はグロス値表記で210ps)を発生するRB20DET型を搭載し、4輪独立操舵システムであるHICASを搭載したモデルである。
搭載するエンジンは前述のRB20DET型のほか、直列6気筒がDOHC RB20DE型、SOHCターボ RB20ET型、SOHC RB20E型、SOHCディーゼル RD28型。直列4気筒はSOHC CA18S型の計6機種。サスペンションはフロントがストラット式、リアがセミトレーリングアーム式。但し4ドアセダン・4ドアハードトップの各1800シリーズおよびワゴン全車はリアが5リンク式リジッド。
1986年1月
ワゴンを追加。RB20ET搭載のワゴンGTパサージュターボは、スバル・レガシィツーリングワゴンが登場するまでは国内スポーティーワゴンの雄であった。
1986年5月
待望の2ドアスポーツクーペのGTSシリーズを追加。
1986年8月
「4ドアセダン1800エクストラG」を追加。
1986年9月
2ドアスポーツクーペに引続き、4ドアハードトップにもGTSシリーズを追加。
1987年2月
「2ドアスポーツクーペGTSツインカム24VターボNISMO」を限定1000台にて設定。イタルボランテステアリングホイール、バケットシート等を装備する。
1987年5月
「4ドアセダン1800エクストラGリミテッド」、および「4ドアセダン1800Gリミテッド」を追加。
1987年8月
マイナーチェンジ。4ドアのフロント周りの造形を2ドアスポーツクーペと共通するデザインへ変更や量産車で世界初のプロジェクターライト採用等、外観とエンジン[10]に手が入る。マイナーチェンジと同時に、当時のグループAのホモロゲーションモデルとして「2ドアスポーツクーペGTS-R」を800台限定で設定。フロントオートスポイラーを固定化し、大型スポイラーを装備、さらにターボタービンの変更等のチューニングを施し210ps(ネット値ハイオク仕様)を発生させる。1987年11月のインターTECにてデビューし、全日本ツーリングカー選手権をはじめ国内レースを席巻、以降に復活するR32型GT-Rの布石を築いた。
1988年5月
日産の子会社であるオーテックジャパンが独自にエンジンや足回りをチューニングし、GTS-Rと同じ210(ネット値)psを発揮する限定車「GTSオーテックバージョン」が登場(限定200台)。注文数が大きく上回り、発売日には抽選で販売した。

なお、カタログモデルでタクシー仕様車が設定されたのは同型が最後となった[11]

オーストラリアではCA20E搭載の4気筒モデルをピンターラ (Pintara) という名称で現地生産された。2代目ピンターラは日本ではオーズィとして逆輸入された。

また、コンプリートカーメーカーのトミーカイラがオーストラリア向け車両に搭載されていた3000ccSOHCのRB30E型エンジンを搭載し、コンプリートカートミーカイラM30として市販した。これは、日本初の公認チューニングカーとしてトミーカイラが世に出した最初のモデルでもある。このM30は2007年2月時点での日本での現存が8台(R31HOUSE調べ)という超稀少車種となっている。

また同じくコンプリートカーとしてM20も存在した。こちらも生産台数30数台という稀少車種である。

8代目 R32型(1989年-1993年[12]

通称:R32アールサンニィ)、超感覚スカイライン

1989年5月

4ドアセダン7グレード、2ドアクーペ5グレードで登場。GT-R以外の系列は最後の5ナンバースカイラインとなる。当時日産が推し進めていた901運動の最重要車種として開発された。ボディタイプはR31型まで存在した4ドアセダン、およびステーションワゴンが姿を消し、ピラードハードトップ構造の4ドアスポーツセダンと2ドアクーペの2本立てとなった。4ドアハードトップはR32型を最後に消滅した(R33型以降は窓枠付きのセダン)。

標準モデルの搭載エンジンは直列6気筒が215psまでパワーアップされたRB20DET型(GTS-t)を筆頭にRB20DE型(GTS)、SOHCのRB20E型(GTE)と直列4気筒SOHCのCA18i型(GXi)もあったが、R31型まで設定されたディーゼルエンジンの設定はなかった。中でもR32型のGTS-4にはRB20DET型エンジンにGT-Rと同じアテーサE-TSを組み合わせているのでGT-R並の高性能も味わえた(実際には鉄パーツ多用による重量と、ブリスターフェンダー非装着なのでトレッドの狭さがあるが)。後にマイナーチェンジで2500ccのRB25DE型を搭載し、5速ATを組合わせたGTS25も追加され、GT-R以外の3ナンバーモデルも発売されたが、A31型セフィーロの様に全車3ナンバー化はされなかった。またこのモデルから4気筒、6気筒に関わらず、すべてのグレードにおいて丸型4灯テールランプが採用されている。

GT-Rの復活ばかりが注目され陰に隠れる形になってしまった標準モデルだが、当時の基準としてはボディがやや肥大化しすぎた感があった7代目をダウンサイジングしてスリム化したスタイリングは、自動車評論家やレーサーからは最もバランスの取れたモデルとして歴代のスカイラインの中でもきわめて評価が高い。しかし、先代と比べてかなり狭くなった車内空間(特に後部座席)でファミリーユースが減少、新たな兄弟車種であるセフィーロ[13]の存在、そして車の流行がミニバンRV[14]に変わっていった時期とも重なり、販売台数は落ち込んでしまう。なお、前期・後期共に教習車仕様が存在していた。

パトカー仕様の設定はこの代が最後となる(YHR32型車が1991年8月まで製造)[15]。なお先代R31型までは中東やオセアニア向けなどの輸出仕様が存在したが、このR32型は日本国内専用モデルであった。

1989年8月21日(発売開始)

16年ぶりにGT-Rグレードが復活し、日本国内のみならず日本国外の自動車レースを席巻した。内に秘めたポテンシャルでは当時のフェラーリ・348等を上回ると絶賛された。かつてのGT-Rは自然吸気の直列6気筒4バルブDOHC 2000ccエンジンを搭載する後輪駆動(FR)であったが、復活したR32型GT-R(BNR32型)では、2568ccの直列6気筒4バルブDOHCエンジンにセラミックスターボチャージャーを2基装備した(RB26DETT型)を搭載し、FRをベースとしつつも、高度な電子制御によって4輪に自在に駆動力を配分できる4輪駆動システム(アテーサE-TS)を搭載する4輪駆動車とされた。

1990年2月22日

グループAホモロゲーションモデルとして、タービンをセラミック製から耐久性の高いメタル製へ、ダクト付きフロントバンパー(通称ニスモダクト)、フードスポイラー、リアワイパーレス等の変更を加えた「GT-R NISMO」(限定500台)を追加。モデルコードはKBNR32RXFSL-RA。

1991年7月19日(発売開始)

レース用ベースモデル「N1」登場。角型ハロゲンヘッドライト、ブレンボ製ブレーキ、NISMO純正ホイール、NISMO製ステアリング、マフラー、ストラット・タワーバー等を装備し、主に耐久レースのベース車両となった。製造は228台のみ。

1991年8月20日

標準モデルをマイナーチェンジ。フロントバンパー、フロントグリル、ヘッドライト、バッジ類などを小変更。内装はクロスの素材や色、メーターパネルなどを変更。またサイドドアビームや運転席エアバッグをオプション設定するなどの衝突安全対策を充実。

1992年2月

オーテックジャパンより、4ドアスポーツセダンGTS-4をベースに、GT-R用RB26DETT型をNA化し、鍛造ピストンや高回転カムシャフトを採用するRB26DE型(220ps/6800rpm、25.0kgm/5200rpm)と4速ATを組合わせた「オーテックバージョン」[16]が発売された。

その他、コンプリートカーメーカーのトミーカイラがオーストラリア向け車両に搭載されていた3000ccSOHCのRB30E型エンジンをRB26DETT型のパーツを流用しDOHC化。NAながら280psを発揮させるRB30DE型を独自開発し、オーテックと同じくGT-Rではなく2ドアスポーツクーペGTS-tの車体に搭載しコンプリートカーとして市販した。

スカイラインの生みの親である桜井眞一郎率いるS&Sエンジニアリングの手により、R32型GT-Rの優良中古車をベースに、R33型とR34型の純正パーツを使用し制作された「BNR32 S&S Limited Version」がインターネット限定で32台販売され、即時完売した。

社内での開発コードはRXだった。当初、メーカーの広報車の一部には、「RX」のロゴとストライプを組み合わせたデカールが貼られていた。また、そのストライプデカールはディーラー・オプション品として設定されていた。

近年では少なくなったミドルサイズのボディとアフターパーツの多さ、軽量さなどから後継のR33とは比べ物にならない高い人気を登場後20年近く経過した現在でも維持しており、程度のいい車両は高値がつき、GT-Rに至っては500万円以上で取引される物件もある[17]

9代目 R33型(1993年-1998年)

通称:R33アールサンサン)、GT9(ジーティーナイン

キャッチコピーは本流グランドツーリングカー。ボディをふたたび大型化。主力は2.5Lとなり、全車3ナンバーとなった。GT-Rは1995年1月に発売された。R32型に比べて全体的に大型化された事により、居住性は大幅に上がったが同時に車両重量も増加した。特に発売初期の頃はGT-Rも含めR31型程ではないが評価・評判共にあまり芳しくなかった要出典

サスペンション形式はR32と同じくマルチリンクだが、前アッパーアームをI型からA型に変更、後ダンパーのストローク増、などの改良が図られている。

GT-R含むクーペ全てとセダンの前期モデルは、バッテリーをトランク奥に設置するハイトラクションレイアウトを採用している。

開発当初はクーペをショートホイールベースにする予定だったが、終盤でセダンとのシャシー共用によるコストカットを求められた要出典

エンジンのラインアップはGT-R専用となる2.6L RB26DETT型、2.5L RB25DET型とRB25DE型、および2.0L RB20E型(R33型唯一のSOHCエンジン)の4タイプであった。またスカイラインとして初めて、全グレードに「GT」が冠されることになった。トランスミッションは5速MTと5速AT(5速ATはマイナーチェンジにて4速ATに変更される)であった。RB25DET型エンジンは『リニアチャージコンセプト』により過給圧を抑えレスポンスの向上を図った。

R33型デビュー直後、東京モーターショーでGT-Rのプロトタイプが発表されたが、市販モデルではフロント周りを見直された。そして一般車としては前代未聞の、改造車の祭典東京オートサロンにてデビュー。

GT-Rの車両形式が前回のBNR32からBCNR33へとアルファベットが変更された。

発売後、NISMOからは400Rと呼ばれるコンプリートカーが限定車として44台販売された(限定台数は99台であったが、その前に販売が終了)。当時の販売価格は1200万円である。この400Rの名前の由来は搭載されたエンジン、ニスモが「RB-X GT2」と呼ぶ2.8L排気量アップ版の最大出力400psに由来する。

1995年1月
一部変更。運転席SRSエアバッグ、およびテールパイプフィニッシャーを標準装備としたほか、外装を一部変更。セダンのラジエータグリル、ヘッドランプ周りをスモークシルバーに変更し、GTSタイプG系にアルミホイールを標準装備化。クーペのラジエータグリルをボディカラー化し、「エアロパッケージ」を設定。「セダンGTS25タイプG・SE」および「セダンGTS-4タイプG」を追加。さらに、BNR32型が継続販売されていた「GT-R」がフルモデルチェンジしBCNR33型となる。横桟タイプより、メッシュタイプのラジエータグリルにGT-Rのエンブレムを配した。角度調整機構付リアスポイラーを採用。RB26DETT型エンジンの出力は280ps/6800rpm、37.5kgm/4400rpmとなる。グレードは標準車の「GT-R」、「GT-R Vスペック」、「GT-R VスペックN1仕様」の3種。N耐参戦ベース車である「Vスペック N1仕様」は、カーボンセンターリヤスポイラー、カーボン製アンダーカバー、メタルタービン、空冷式エンジンオイルクーラーなどの専用装備を持ち、軽量化として助手席エアバッグ、エアコン、オーディオ、集中ドアロック、リヤワイパーなどが省かれている。なおボディカラーの設定はホワイト(#QM1)のみであった。
1996年1月
標準モデルをビッグマイナーチェンジ。外装が大幅に変更され、セダンとクーペの差別化が明確にされた。
1996年5月
ル・マン24時間レース出場記念モデル「GT-R Vスペック LMリミテッド」と「GT-R LMリミテッド」を2ヶ月間の期間限定販売モデルとして追加。
1997年2月
GT-Rをマイナーチェンジ。フロントバンパーの形状が変更され、スポイラー部を下方に20mm延長し大型化。プロジェクタータイプのキセノンヘッドランプを採用。ABSのアクチュエーターを小型軽量化したほか、リアメンバーを補強し剛性アップも図られBCNR33型としての最終進化型となった。
1997年10月
第32回東京モーターショーに「GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー」を出展。スカイライン生誕40周年を記念した限定車。BCNR33型GT-Rをベースに4ドアのボディを載せた、PCG10型GT-R以来の4ドアGT-Rである。2ドアGT-Rのブリスターフェンダーを再現するために、わざわざリアドアとリアフェンダーのプレス型を作り直す程であった。
1998年1月
「GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー」を発売。型式は「BCNR33改」となる。村山工場で組み立てされた後、座間事業所にて仕上げを施され、出荷された。神奈川県警が白黒、埼玉県警が覆面パトカーとして2台ずつ導入している。

GT-Rのみ100台限定でイギリスへ輸出されている(下記「GT-Rとは」参照)。そして、日産がル・マン24時間レース参戦用に「GT-R LM」と呼ばれるホモロゲーションマシンも1台だけ製作された。

この頃のGT-RやJZA80スープラRZ等のスポーツモデルは出力こそ自主規制値の上限である280psとなっているが、実際にはマフラー等で出力を絞っているだけであり、マフラー等の吸排気系を社外品に変えるだけのライトチューンでも実測値で400ps弱という出力が発生してしまうため、自主規制は有って無いような物となっている。

10代目 R34型(1998年-2001年[18]

通称:R34アールサンヨン

1998年5月
R34型発売。キャッチコピーはドライビングボディ。先代の反省からかホイールベースを短縮し、ボディ剛性が向上され、同時に安全性も向上された。搭載するエンジンは全て直列6気筒DOHCであり(スカイラインとしてはこの代より全て4バルブDOHC化)、2.0LのRB20DE型、2.5LのRB25DE型、および2.5Lターボ付のRB25DET型の3種類。マニュアルモード付ATを2.5L 2WDモデルに設定した。MTはクーペの全仕様、セダンのターボモデル、4WDモデルおよび2.0Lモデルに設定された。
標準での最スポーツモデルでRB25DET型を搭載する「25GT-t」はついに280psを発揮するまでに至った(さらにマイナーチェンジでR32・GT-Rの最大トルクをも上回った)が、クラス下のランサーエボリューションインプレッサが既に同程度の出力を達成していただけに、パワー重視のユーザーからはあまり興味を持たれなかった。
1999年1月
R34型GT-R発売。キャッチコピーは「人に翼を」。前回同様に東京オートサロンデビューとなったが、有名なショップには事前に納車され、若干チューニングが施された車が展示され、NISMOからはコンプリートカー状態になったものが展示されていた。
このR34型は第2世代最後のRだけに歴代GT-Rの中でも究極のGT-Rと言える進化を遂げた。Vスペックには量産車初のオートクレーブ工法で形成されたカーボンディフューザーや国内市販車初となる可変2段リアウイングスポイラー等のアドバンスドエアロシステムを採用、鍛造18インチホイールを装備、トランスミッションは独ゲトラグ社と共同開発した6速MT、ブレーキはイタリアの名門ブレンボ製を標準装備。エンジンは第2世代最後となるRB26DETT型を搭載。自主規制枠一杯の最大出力280psはそのまま(ちなみにエンジンの実測馬力は約330ps。タービンを容量一杯まで使い切る事により550psを発揮している)ではあるが、R390GT1で培われた技術を活用し、最大トルク40.0kg/mを達成する等、究極のドライビングプレジャーを名乗るに相応しい車に進化した。その結果、当時COOとして日産を立て直した現日産CEOであるカルロス・ゴーンの口から「日産で最も好きな車」と言わせた。車内においてはコンソール中央にマルチファクションディスプレイと呼ばれる車両の状態を確認するモニターが搭載され、水温、ブースト圧などを表示することが出来る。Vスペックとノーマルでは多少表示項目が異なる。
1999年2月
4ドアセダンに電動SUPER HICAS、リヤビスカスLSD等、ターボ車同様の足回りを持つ「25GT-V」を追加。R34型登場時には設定のなかった2WDセダンのNA 2.5LとMTの組み合わせとなる。
3月末までの期間限定モデルとして売り出されたが、4月以降も生産され翌年発売された2ドアと共に、後期型ではカタログモデルとなった。
1999年9月
2ドアスポーツクーペ・4ドアセダンともにリヤビスカスLSDをヘリカルLSDに変更。また細かいところでは、エンジンカバーに書かれた「Turbo」「NEO STRAIGHT 6」の文字に施された赤い塗装が廃止されたことがカタログから読み取れた。
2000年1月
2ドアスポーツクーペに「25GT-V」を追加。GT-Rに第33回東京モーターショーに参考出品された特別塗装色ミッドナイトパープルIIIを3ヶ月期間限定で設定。
2000年8月28日
マイナーチェンジ。内外装を一部変更したほか、RB25DET型の5速MT車にて、エンジンのトルクアップを施した。ただし、このマイナーチェンジ車はGT-Rを除きわずか10ヶ月しか販売されていない。
2000年10月
GT-Rがマイナーチェンジ。内外装の一部変更、およびVスペックに替わりVスペックIIをラインナップ。量産車としては初のNACAダクト付きカーボンファイバー製ボンネットフードを採用。その他色の変更、アルミペダル化、ターンシグナルランプのクリア化が行われた。なお、この代のGT-Rはイギリスでも100台限定ながら輸出販売されている(下記「GT-Rとは」参照)。
後期型へのマイナーチェンジ直後、工場閉鎖のため2000年9月29日(GT-Rは8月5日)に村山工場での生産を終了し、「工場5」のコーションプレートを持つ車両は絶版となる。以降は栃木工場が生産拠点となる。GT-Rの村山最終生産車両は同車開発主管の渡邊衝三が保有する。
2001年5月
「GT-R M・spec」追加。リップルコントロールショックアブソーバーを採用したほか、専用の本革シートを装備し、専用色を設定した。
2001年6月
RB型エンジン搭載最後のモデルで3年という短いサイクルでV35型へバトンタッチ。その後もGT-Rは継続販売された。
2002年1月
同年8月にGT-Rを生産終了することを発表。これは、平成12年排出ガス規制に適合しない車種が、引き続き生産出来る猶予期限が切れる為である。同時に最終特別限定車「M・spec Nür」、および「V・spec II Nür」を設定。前者が630万円、後者が610万円である。「Nür」とは、GT-Rもテスト走行で使用した、ドイツニュルブルクリンクから命名された。この「Nür」にはヘッドカバーを金色塗装されたN1仕様エンジン、N1タービン、シャフト、ピストンなどのN1用パーツを使用し、300km/hスケールのスピードメーターを装備。通常ならばステッカー式の後部グレードステッカーが立体エンブレムになり、コーションプレートもゴールドになっている。さらには専用色である「ミレニアムジェイド」を設定している(「V・spec II Nür」はシリカブレス、「M・spec Nür」はベイサイドブルーがラインナップには無い)。「Nür」は元々1グレード300台限定で発売される予定だったが、1月の発表後に新聞や車雑誌などで大きく宣伝されていた為か、問い合わせが殺到し急遽500台に増産が決定した。しかしそれでも予約希望者数に対応できないため、最終的に両グレードで計1000台の生産が決定した。1月24日発表日に即日完売(発売日は2月26日)してしまうという、第二世代GT-Rの劇的なラストを飾った[19]。このNürもGT-Rの名にふさわしく東京オートサロンでの登場だったのだが、使われたのが室内試乗用車両であり、しかもノーマル状態だったため、ほとんどの人に気づかれていなかった。
2002年8月
平成12年排出ガス規制非適合のためGT-R生産終了。
2005年
NISMOより、R34型GT-Rの最終形態とも言える、2800cc化されたRB26DETTを搭載するZチューンが20台限定1774万5000円で発売された。(既に所持しているR34GT-Rを工場に持ち込みチューンする「パーツコンバージョン」は1312万5000円である。ただしカラーはベース車両のままでハードコートも無くなる。また、ミッドナイトパープル色は受付できない)このZ-チューンは、最高出力500psを誇るモンスターマシンでありながら、ストリートを意識した仕様になっている。ホイールなどはZ-チューン仕様のLMGT4を使用している(このLMGT4は後に限定で市販されている)。
車重がノーマルより重いのにも関わらず、街乗りもまったく苦にしない上に、0-400加速にて10秒フラットを記録できるなど、究極のロードゴーイングカーの名にふさわしい仕様になっている。
2007年3月
ベース車の確保が困難(程度の良い中古車が手に入らなくなった)になった事を受け、生産が終了した。総生産台数はプロト1台、保存車1台、国内13台、日本国外4台の計19台であった。

なお、2ドアクーペは交通取締り用のパトカーとして数台採用された。4ドアセダンのGTターボは交通取締り用の覆面パトカーとして50台が導入された(前期型)、しかし少数ながら後期型も埼玉や和歌山などの高速隊には存在している。その後捜査用車両としてNAエンジンの4ドアセダンが127台導入された、最近では交通取り締まり用はクラウンの覆面パトカーにその座を譲る事が多くなった。GT-Rのパトカーは現在埼玉県警のみ所属しており、白黒車4台とシルバーの覆面車1台体制で東北自動車道で現在でも使用されている[20]

R34スカイラインの画像

R34スカイライン・クーペ 1.jpgR34スカイライン・クーペ 2.jpgR34スカイライン・クーペ 3.jpgR34スカイライン・クーペ 4.jpgR34スカイライン・クーペ 5.jpgR34スカイライン・クーペ 6.jpg


11代目 V35型(2001年-2006年[21]

セダン 1999年10月の第33回東京モーターショーに、コンセプトカー、「XVL」を出品。当初はスカイラインとは別のモデルとして発表され、日産の新しいスポーツセダンとして開発が始められた。2001年6月18日には「XVL」をV35型スカイラインとして発売。10代目の項の通り、R34型登場から3年後にV35型が登場したが、先代までのフルモデルチェンジのサイクルと比較して短い。この型から、従来スカイラインGTの象徴の一つであった直列6気筒エンジンに替わり、V型6気筒直噴ガソリンエンジンのVQ30DD型、VQ25DD型を搭載した。また、丸型のテールランプが廃止(後のマイナーチェンジで復活)など、全体的なデザインテイストの変更なども行われた。

一方、国外では、日産の上級ブランドであるインフィニティブランドにおいてインフィニティ・G35として販売され、好評を得ている(「インフィニティ・G20」、日本名プリメーラの後継車)。

クーペ 2003年1月16日にセダンより約1年半遅れて発売(MT車は同年2月6日発売)。搭載するエンジンはVQ35DE型エンジンのみ。なお、クーペではセダンに先立ち丸型テールランプが復活している。

2007年8月にクーペの販売終了。この2ヵ月後にV36型クーペが登場している。

12代目 V36型(2006年-[22]

セダン 2006年4月にニューヨーク国際オートショーで輸出仕様である新型インフィニティG35セダンが出展され、同年11月20日に日本国内で発売された。目標月間販売台数は1000台と発表されている。

大幅な軌道修正を行った先代モデルからのキープコンセプトであり、エンジンは改良型VQHRエンジンVQ35HR型 V6 3.5LとVQ25HR型 V6 2.5Lを搭載。スポーツグレードである「350GT Type SP」と「350GT Type S」には世界初搭載の四輪操舵システム「4輪アクティブステア 」をメーカーオプション設定。

また、ナビゲーションには日産初のHDDタイプが設定された。

クーペ 2007年4月のニューヨーク国際オートショーにおいてG37クーペが発表され、同年10月2日に発売。エンジンはVVEL(バルブ作動角・リフト量連続可変システム)を採用した3.7LのVQ37VHR型を搭載。セダンには無かった6速MTも設定され、日本初となる歩行者との衝突時に瞬時にボンネットを浮かせる「ポップアップエンジンフード」も搭載された。目標月間販売台数は200台と発表されている。

クロスオーバー 2009年7月13日に「クロスオーバー」の販売を開始。従来型にもアテーサE-TS方式の四輪駆動車はあったが、SUVの設定はスカイライン史上初であり、ハッチバックを持つ車型も、6代目 R30型系以来となる。

GT-R

GT-Rは、C10型(通称:ハコスカ)から続くスカイラインの中でもサーキットでの使用を主眼にして開発(メーカーチューン)された車両であり、日本を代表する名車の一つである。乗用車ベースでありながらレースで勝つことを使命とし、スカイラインの他のグレードと違った装備やエンジンを搭載し、他の国産スポーツカーにも影響を与えるほどの車である。それゆえに熱狂的なファンが多く、エンジニアにも特別のこだわりがある。そのためにGT-Rの名を冠することが許されなかったモデルもあり、それがGT-Rの存在をより特別のものとしている。 「世界的に有名な3つのアルファベットがあります。G, T, Rです。私はここでお約束いたします。必ずGT-Rは復活します。」と2001年東京モーターショーのプレス・カンファレンスでカルロス・ゴーンCOO(当時)が“GT-Rコンセプト”を前に、プレゼンテーションの冒頭で発言した。徹底した合理化戦略ばかりが取り上げられることが多いゴーンにこのような内容を託したことからも、この車に懸ける日産の姿勢が伺える。この約束をカルロス・ゴーンは果たし日産・GT-Rを2007年10月24日第40回東京モーターショーで量産型が発表され2007年12月6日に販売される事となる。 特にR32型からではあるが、日本国外のレースで大いに活躍した功績から、Rの評判は国内のみならず世界にもその名を知られており、ゴジラ(Godzilla)と呼ばれる程浸透している。それ故に、スカイラインはほぼ国内販売専用車であるが、R32、R33、R34のGT-Rが輸出業者の手により日本国外へと渡っている。評判は非常に高く、正規輸出としてもR33GT-Rはモデル末期に100台限定で、さらに、R34GT-Rも同じくV-specが100台限定ながらイギリスや香港ニュージーランド左側通行国で販売された。

これは日産自動車側に「日本国外でも販売して欲しい」と言う要望が強かったことと、ル・マン24時間耐久レースに、「NISMO GT-R LM」として出場した事によりヨーロッパでの知名度が上がった事、そして最大の理由は、イギリスBBCで放送されているトップ・ギアジェレミー・クラークソンがR33型の記事を寄稿した事によるものである。イギリスでは関税の影響で、日本円に換算すると当時のレートで1080万円もする(国内仕様のV-specIIの新車価格は574.8万円)高額商品であり、「スポーツ走行が出来る程高性能なのに、家族も乗せられる」と、実用面に対しての満足度も非常に高い。なおこの計200台はいずれも数日で完売している。

その他、ドイツフランススイスアメリカUAEなどの右側通行国などへは個人輸出されたケースも多い。また、SUPER GTで活躍するミハエル・クルムも日本国内でR34GT-Rを2台購入し、モナコへ輸送している。

英国仕様は、国内仕様とは特に大きな差異はないが、R34型は現地の法規に合わせた対応(セキュリティの強化やヘッドライトのハロゲンバルブ化(保安基準に適合しなかったための変更)、スピードリミッターを欧州の自主規制値である250km/hへ引き上げ、及び200マイル/hスケールスピードメーターの採用等)や、後に国内仕様のMスペックにも採用された本革シートが装備されている(英国仕様の本皮はコノリー社により手作業で張られたもので、日本のラインナップには無かった赤色表皮も選択出来た)。

スカイラインのモータースポーツ活動

スカイラインは初代モデルからモータースポーツに参戦しているが、本格的に参戦したのはS54型による第二回日本グランプリが最初。ホモロゲーションモデルであるGT-A、GT-Bから「スカG」の歴史が始まった。

3代目PGC10型/KPGC10型GT-R は国内レースで、マツダロータリー勢に苦しめられながらも50勝を達成したほか、数々の伝説を残す。

その後、R30シルエット・フォーミュラ、R31・GTS-RでのグループA全日本ツーリングカー選手権参戦を経て、 グループAの頂点を目指すべく、GT-R(BNR32型)が復活、デビューからレース終焉まで29連勝の新たな伝説を築く。

全日本GT選手権では、1993年の開幕から2003年シーズンまで、R32からR34までの3世代のモデルが参戦し、すべてタイトルを獲得している。

※5代目(C210型)については排ガス規制の対策に追われたため、特にモータースポーツ活動はない。

初代 (S20型)

1959年7月第1回「日本アルペンラリー」にスカイラインが参戦。

1963年5月 第1回日本グランプリB-IIクラスに「スカイライン・スポーツ」、C-IVクラスに「スカイライン」がそれぞれ参戦。「スカイライン・スポーツ」は7位、10位。「スカイライン」は8位。

2代目(S50型)

1964年5月 第2回日本グランプリGT-IIクラスにスカイラインGT(S54-I型)出場、2位入賞。T-Vクラスにスカイライン出場。日本グランプリ決勝では1周だけ優勝候補であったポルシェ・904の前を走り、2位でレースを終えた。ツーリングカークラスのスカイライン1500、およびグロリアも優勝を飾っている。GTクラス優勝のポルシェ・904は、プリンスの日本グランプリ3冠を阻止するべくトヨタが取り寄せた、との噂が出回った。ポルシェ・904のドライバーは式場壮吉であり、式場は前年度トヨタのワークスドライバーとして日本グランプリに参加しているからである。当時、東京新聞の記者だった三本和彦が「羊の皮をかぶった狼」と記事のタイトルにしたが、当時のプリンス自工の広報部からクレームがついたらしい。

3代目(C10型)

1969年5月 「'69JAFグランプリレース大会」クラブマンレース・特殊ツーリングカークラスでGT-R(PGC10型)がデビュー。1位でゴールしたトヨタ1600GTが、日産側の抗議によって走路妨害と判定され、1周減算された結果、GT-Rが優勝となる。

同月 「JAF公認700キロ ノンストップラリー」にて「スポーティデラックス」が優勝を飾る。

1969年8月 「第5回モーターファン&AUTO SPORTラリー」にてGT-Rが総合3位を獲得。

1969年10月 「'69日本グランプリレース大会」ツーリングカーレースにてGT-Rが1-3位を独占。

1970年3月 「JMCマウンテン・サファリラリー」に1800が参戦。1970年5月 「'70JAFグランプリレース大会」特殊ツーリングカーレースにてGT-Rが1位、2位、4位を獲得する。このときの優勝車(58号車)をエブロが1/43ミニカーとしてモデル化している。

1970年6月 「ツール・ド・ニッポン」に2000GTが出場。同月 「全日本富士300マイル」100マイルBレースにて、長谷見昌弘のドライブするGT-Rが優勝。長谷見はスペアカーで決勝に臨み、最後尾スタートであった。

1971年5月 「'71日本グランプリレース大会」ツーリングカーbレースにてGT-Rが1-3位、5位を獲得する。

1971年9月 マイナーチェンジ。1500、および1800の出力を向上。1500シリーズにハードトップ、およびGTシリーズ「ハードトップ2000GT-X」を追加された。

1971年12月「第6回富士ツーリスト・トロフィーレース」で50連勝をかけたレースで、GT-R勢にトラブルが相次ぎサバンナとの戦いに敗れる。

1972年3月 「'72富士GCシリーズNo1 富士300キロスピードレース」スーパーツーリングレースにて、GT-Rが豪雨の中、高橋国光が全車を周回遅れにして1位、プライベートの久保田洋史が2位、同じくプライベートの河原伸光が6位を獲得し、通算50勝を達成する。

1972年5月 「'72日本グランプリレース大会」ツーリングカーレースbにGT-Rが出場。表彰台をマツダロータリーサバンナカペラに独占され、GT-R勢は4-6位。

1972年9月 「'72GCシリーズ 富士インター200マイルレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースにてサバンナとこれまでに無いほどの熾烈な戦いを制し、北野元が駆ったGT-Rが1位、プライベートの久保田洋史が3位、同じくプライベートの正谷栄邦が6位を獲得し、通算52勝目を飾る。

1972年10月 「'72GCシリーズ第4戦 富士マスターズ250キロレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースに黒沢元治長谷見昌弘の駆るGT-Rが出場。サバンナとすさまじいトップ争いを演じていたが、ラップ14で周回遅れのサバンナとともにクラッシュし、優勝を逃す。GT-Rの最高順位は4位。9月にC110型にモデルチェンジしたこともあり、徐々にKPGC10型GT-Rのレースへの出場は減っていった。

4代目(C110型)

1973年6月 「JAF公認・JMC主催 第10回北海道周回ノンストップラリー」にて、「セダン1800(PC110型)ラリーバージョン」が総合優勝を飾る。

1975年6月 「北海道周回ラリー」にて「セダン1800」が総合優勝を飾る。

1975年7月 「第3回JMCオーバーナイトラリー」にて「セダン1800」が優勝を飾る。

1976年11月 「JMC中部ラリー」にて「セダン1800GL」が優勝を飾る。

この年、「オーストラリア トタル エコノミーラン」にオーストラリア向けスカイライン「ダットサン240K」が出場。優勝を飾っている。

6代目(R30型)

1982年5月 当時のグループ5規定に合わせたレーシングカー「スカイライン スーパーシルエット」が登場。「ハードトップ2000RS(KDR30型)」をベースに車体の一部をパイプフレームとするノバエンジニアリング製のシャシーに、大型のフロントスポイラー、およびリアウイングを備えるムーンクラフト製のカウルをまとい、「RS」のイメージカラーである赤/黒の2トーンカラーが特徴。ドライバーはかつてPGC10型GT-Rを操った長谷見昌弘。エンジンはサファリラリー等で使用された「バイオレット」に搭載されていた直列4気筒DOHC LZ20B型(にエアリサーチ製T05Bターボチャージャー、およびルーカス製メカニカルインジェクションシステムを組合わせ、 570ps/7600rpm、55kgm/6400rpmというパワーを誇った。トミーがメインスポンサーを勤め、トミカのバリエーションとしてモデル化もされたが、日本各地の日産プリンス販売会社からのカンパに大きく支えられた面もある。

また日産自動車の意向により、同様のレーシングカーが「シルビア(KS110型)」および「ブルーバード(KY910型)」でも製作され、それぞれ星野一義、柳田春人がドライブした。「シルビア」のメインスポンサーは日本ラジエーター(現カルソニックカンセイ)、「ブルーバード」のメインスポンサーはコカ・コーラであった。1984年度まで国内外のレースに参戦し、1983年シーズンではR30型のマイナーチェンジに伴い、フロントフェイスおよびテールランプが変更された。また、スプリント用とは別に1982年8月に耐久用マシン(日産・スカイラインターボC)も追浜ワークスで製作され、南アフリカのキャラミ9時間に参加した。翌年グループC規定にあわせマシンも改造され、全日本耐久選手権に参戦する。

7代目(R31型)

1987年インターTECにGTS-Rがデビュー。

1988年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。

1月 第1戦「新春NRC鈴鹿300km自動車レース」 優勝
3月 第3戦 「西日本300kmレース」優勝

1989年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。

5月 「89ハイランドグループA300kmレース」 優勝
8月 「89レース・ド・ニッポン」 優勝
9月 「SUGOグループA 300kmレース」 優勝
9月 「グレード20ドライバーズレース」 優勝
※長谷見昌弘がドライバーズ・タイトル獲得

8代目(R32型)

1990年全日本ツーリングカー選手権(JTC)第1戦西日本サーキットにてGT-R(グループA仕様)はレースデビュー。当初、星野はFRではなく4WDであることに不安を持っていたものの、試乗後に「これは無敵だ」と確信したという。レースでは、星野/鈴木組のカルソニックスカイラインがポール・トゥ・ウィンを飾るだけでなく、予選ではコースレコードを2秒近く短縮、決勝では全てのマシンを周回遅れとするなど、圧倒的な力の差を見せつけたことは現在でも語り草となっている。その後もシリーズ全戦でポールポジション獲得・優勝。翌年度からは徐々に参戦車数が増え、最終シーズン1993年には7台のGT-Rが参戦、グループAは事実上のワンメイク状態とまで化した。結局、1990年の初戦からJTCというカテゴリーが終了する1993年まで無敗を誇り、最終的に29連勝という偉業を成し遂げる。がしかし、皮肉にもあまりに強過ぎたことが、カテゴリー自体を消滅させる一因ともなった。なおJTCと並行してN1耐久シリーズ(現・スーパー耐久)にもGT-Rで参戦した。

また日本国内だけでなく、国外のレースにも積極的に参戦し、世界3大耐久レースの一つ、スパ・フランコルシャン24時間レースには1990年~1992年に出場。91年にはGr.Aクラスで日産ワークスから送り込まれたZEXELスカイラインが国産車初の総合優勝を果たした(なお、あまりに速過ぎたことでテレビ映りが悪く、局から苦情を受けている)。1990年には、マカオギヤレースに参戦。圧倒的な速さで予選トップを獲得、決勝でもその力を見せつけ、1度もトップを譲らずに優勝した。なお、他にもプライベートチームよりヨーロッパや北米のレースにも数多く参戦し、殆ど優勝を飾っている。 これらの結果を受けて、ル・マン24時間レースを主催するACOからは4WDシステムの完成度の高さから4WD自体の禁止という嬉しくも悲しい洗礼を受ける事態とまでなった。

まさにGT-Rの復活を裏付けるにふさわしい、これらの結果やエピソードから、いまだにBNR32は歴代GT-Rの中でもファンが多いことで知られる。

なお、1990年に一度だけ世界ラリー選手権 (WRC) にも出場していた事がある。国内外で活躍したBNR32であるが、元々ラリー用に設計されている車種ではないので、これに関しては流石に結果を挙げる事はできなかった。

尚、Gr.A終了後はJTCCと同時に始まった全日本GT選手権に転用される車両もあった。

9代目(R33型)

1995年
ル・マン24時間レースに参戦。総合10位。
全日本GT選手権シリーズタイトル獲得。

※ル・マン24時間レースに投入したGT-Rは、車両レギュレーションの関係上、「同一車種に4ドア車が存在する車種はエントリーから除外する」という規定をクリアするために、日産NISMO GT-R LMという独立した車種を製作し、イギリスでナンバーを取得し車両公認を得た上で規定に合致させるという手法を取っている。「公認を得た"ロードカー"を最低一台製作すること。但し販売の義務は無い」という、中小規模のメーカーに対して門戸を開放するために設けられた規定条項を利用した[23]。この為、BCNR33形でありながら「スカイライン」を名乗らないGT-Rとなっている。競技車両同様、前後トレッドを拡大した他、BCNR33型GT-Rに採用されている4WDを廃してFRに改められるなどの改良が施されている。現在は日産自動車が保管しており、イベントなどでその特異な姿を見る事が出来る。

1996年
ル・マン24時間レースに参戦。総合15位。翌年はGT-Rで参戦せず、R390で参戦している。::
1998年
パイクスピークに「ニスモ400R」で参戦。チャンピオン獲得。
全日本GT選手権シリーズタイトル獲得。

1994年より始まったJTCCにも4ドアセダンが近藤レーシングガレージにより参戦していた。当初はR32型で参戦を予定していたが日産がホモロゲーション申請していたのがBNR32、つまりGT-Rのみであったのだが何とかR32で出場したいとの願いから関係各所を回ってみたものの「旧型車にはホモロゲーションを与えられない」との一点張りで渋々諦めた所、日産がR33セダンのホモロゲーション申請を行い、車両を提供されて参戦を果たした。ちなみにR32型で参戦予定していたレーシングカーはFRと4WDの2台製作され、ほぼ完成状態まで来ていたが先述のホモロゲーション問題により参戦が不可能となった時点で解体され産業廃棄物として処理されたという。

10代目(R34型)

1999年:JGTCに参戦。GT500クラスに1月に発売されたBNR34型が3台、前年度モデルであるBCNR33型が2台。「ペンズオイル・ニスモGTR」(エリック・コマス)が2年連続のシリーズチャンピオンを獲得。

スーパー耐久シリーズに参戦。JGTC同様BNR34型が参戦し、「日産プリンス千葉GT-R★FALKEN」がシリーズチャンピオンを獲得した。

2000年

全日本GT選手権に参戦。GT500クラスにBNR34型が4台参戦。
スーパー耐久シリーズに参戦。「5 ZIGEN☆ファルケンGTR」がシリーズチャンピオンを獲得。

2001年

JGTC参戦。GT500クラスにBNR34型が3台参戦し、「ニスモ」が2001年JGTCチームチャンピオンを獲得。
スーパー耐久シリーズに参戦。「FALKEN GT-R」が5年連続となるシリーズチャンピオンを獲得。

2002年

全日本GT選手権に参戦。GT500クラスにBNR34型が3台参戦した。第3戦にはRB26DETT型に替わり、V型6気筒のVQ30DETT型を搭載するGT-Rが登場。第5戦以降は全てVQエンジン搭載となる。
スーパー耐久シリーズに参戦。「エンドレスアドバンGT-R」がシリーズチャンピオンを獲得。

2003年

JGTC GT500クラスに参戦。RB26DETT型ではなくV型6気筒DOHCツインターボ VQ30DETT型エンジンに積み替えたことにより戦闘力を向上し、GT500クラスドライバーズチャンピオンおよびチームチャンピオンを獲得した。
スーパー耐久シリーズに参戦。

脚注

  1. ワゴンはブルーバードといったん統合、後にステージアとして登場。バンはブルーバードと統合してアベニールとなり、現在はADエキスパート
  2. ジョバンニ・ミケロッティとアレマーノ社の手により製作。
  3. 1960年代初頭までの自動車は、ほこりや砂などでエンジン内が磨耗を起こしがちであったため、ライナーを打ち込んで内部を研削し磨耗代を復元するためのヘッド開閉は頻繁で、これを長期不要としたのは画期的であった。長く用いられた在来エンジンの設計を踏襲してはいるが、「封印エンジン」が実現したのは、材質の改良や、内部の表面加工改良のたまものである。
  4. ワゴン1979年-1981年
  5. 1979年12月発売。
  6. 1980年3月発売。
  7. バン1981年-1990年
  8. 後継車はアベニールカーゴ(1990年5月 - 1999年6月)、現在はADエキスパートが販売されている。
  9. クーペ1986年-1989年、ワゴン1986年-1990年
  10. 若干のパワーアップで、RB20DETが190ps。
  11. エンジンはCA18P型-LPG仕様。小型タクシーの全長の規定によりマイナーチェンジ後もフロントおよびリヤバンパーの変更は無かった。
  12. GT-R1989年-1995年
  13. 先代モデル末期の1988年登場。
  14. 日産内部でも1990年にアベニール、1991年にセレナが登場した。
  15. 1991年にはV6エンジン(VG20E)を搭載するグロリアが採用されたが、その後同じRB20Eを積むクルーを投入。
  16. スカイラインオーテックバージョンR32公式サイト
  17. 走行10km未満で人気色のクリスタルホワイト、無改造のフルノーマル、グレード:V-specⅡの物件が1,000万円で取引された例もある。
  18. GT-R1999年-2002年
  19. ランサーエボリューションも限定販売→増産と言うパターンはよく採られているが、即日で完売した例は最近ではNür以外には無い。
  20. 神奈川県警もR32、R33と導入しているが、R34型は導入していない
  21. クーペ2003年-2007年
  22. クーペ2007年-
  23. この手法は後の日産・R390のみならず、他のメーカーも追随していく事になる。

関連項目

外部リンク

博物館