人種差別

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1866年、アメリカ合衆国 ペンシルベニア州知事選挙での、人種差別主義者による政治キャンペーンポスター。白人黒人は異なった基盤として、黒人の投票権に反対している。
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第二次世界大戦中のアメリカ合衆国政府によるポスター。日本兵がネズミとして描かれている。
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黒人は知性において白人とチンパンジーの間に位置するとしている。Josiah C. NottとGeorge Gliddonの著作「地球の土着人種」(1957年)。

人種差別(じんしゅさべつ)または人種主義(じんしゅしゅぎ、英語racismレイシズム人種差別主義)とは、主に人種によって人間を区別または差別すること。

世界的および歴史的に、各種の人種差別が存在している。人種差別と民族差別との相違は不明確である。現在では生物学的には「人種」とは主に外見上の分類であり、「民族」との明確な区別は存在していない。

定義[編集]

社会学者ロバート・マイルズはレイシズムを以下のように定義した。

  • 肌の色など恣意的に選び出された特徴を重要な基準として選択し(segregation)、この特徴により人間集団をカテゴライズし(racialization)、否定的/肯定的な評価を付与し、 一定の人間集団を排除/包摂(exclusion/inclusion)していくイデオロギー。
  • ステレオタイプな他者像(representation of the Other)をともなう。
  • 分類の基準となる特徴は「一般には形質的なもの(例 肌の色、髪の型、頭の形)だが、見てすぐにわかるわけではない生まれつきの現象(例 血統)も重要な特徴として選ばれることがある。

人種差別撤廃条約では、人種差別の定義を「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定めている。

国際連合教育科学文化機関(UNESCO)は1951年に「人種の優劣には根拠がない」 「人種混交が生物学的に不利な結果をもたらすという証拠もない」という「人種と人種差別の本質に関する声明」を出している。

人種と民族[編集]

人種差別とは人が自らとは異なる人種(国際法上や英語圏などでは、日本で民族差別と呼んでいるものも「racism(人種差別)」の類型として扱うことが多い)に関する、生物学的差異をもって他者を不当に差別することを指す。一般に白人(コーカソイド)、黒人(ネグロイド)、モンゴロイド(モンゴロイド)など、肌の色や顔立ちについての伝統的な人種観念に基づく差別を指すことが多いが、人種区分そのものは三大分類だけに限らない。また人種が「人間の生物的な分類」としても適切かどうかという議論も今日行われている(詳しくは人種の項目を参照)。

しばしば民族差別と混同されるものとして、言語宗教などの文化による差異に対する差別があるが、これらは人種差別と異なるものとして扱われることもある。例えばアメリカでは白人種・黒人種の人種間対立が問題視されているが、同じ白人同士でも後発移民が属する民族(アイルランドイタリア東欧)とアングロサクソン(イングランド)系の民族対立が深刻な問題である。こうした誤認の典型的な例がユダヤ人差別に対する認識である。「ユダヤ教を信仰している人」という意味であって、人種ではない。彼らの非同化思想は、国民国家形成における不安要素とする近代反ユダヤ主義を育てることになる。

また反ユダヤ主義を掲げたナチスは「セム人種」や「ユダヤ人種」という生物学的分類を主張して、主に民族的・宗教的な分類であるユダヤ人を、人種的にも区別しようとした。

歴史事例[編集]

ヨーロッパ[編集]

ローマ時代を古代欧州と定義するかは、欧州懐疑論者からしばしば聞かれる疑問である。仮に含めた場合、北アフリカの属州に居住する住民を通じて一定の異人種間の交流が見られたが、属州アフリカの大多数の住民はコーカソイド系のベルベル人であって、中南部の黒人種との交流はごく限定的なものであった。封建的無秩序といえる中世時代においては身近な貴族同士の対立が一番の関心事で、次に宗教的対立がより重要な課題であり、次いで民族対立が垣間見えるといった程度であった。なお肌の白さが優位性の印と考えられるようになったのは後世の話である。古代ローマ時代のガリアやゲルマンは文明の中心地であった地中海世界や中東から離れた未開地であり、ローマ人にとって金髪碧眼(へきがん)は蛮族の象徴のように書かれた。

大航海時代以後の西欧人新大陸インディアンサハラ砂漠以南のネグロイドを差別したことは歴史上では顕著である。また、同じ西欧人であってもアイルランド人など差別を受けた歴史をもつ民族も多い。風説などにより、一方の人種が生物学的に原始的であるとしたり、知能が劣る・野蛮であるとして、野生動物のように考えていた時代もある。大航海時代以後の西欧人は近代的な軍隊により世界の大半を侵略、植民地化していった。植民地支配を正当化するため西欧人の優勢が主張され「優等人種である白人が、劣等人種である非白人に文明を与えるのは義務である」とされた。この優位性は、「白人こそが最も進化した人類である」という価値観さえ生む結果となった(ラドヤード・キップリング『白人の責務』、セシル・ローズの“神に愛でられし国・イギリス”思想、ヒュー・ロフティングドリトル先生』シリーズの『アフリカゆき』『航海記』など)。この考え方は次第に肥大し、学術分野においても各人種間に特徴的な差異を「一方の人種が劣っている証拠」とする説が発表され、優生学の名で正当化された。この中にあって進化論は大いに捻じ曲げられ、後の文化人類学発達を大きく妨げたと考えられる。

アフリカ[編集]

サハラ砂漠以南のアフリカに集中的に居住していた黒人は古代においてアラブ人ペルシア人の奴隷として扱われた時期があり、人種差別の対象であった。イスラム圏の偉大な哲学者であるイブン・ハルドゥーンでさえも黒人を差別の対象としている。アッバース朝時代には南イラクの大規模農業で使役していた黒人奴隷が過酷な労働環境に不満を抱き反乱を起こしている(ザンジュの乱)。なおヨーロッパからアフリカを見た用語としてブラックアフリカがある。

大航海時代以降はヨーロッパ人が黒人を奴隷として使役した。ヨーロッパ人は主に西〜中央アフリカに住む黒人を奴隷として使役してきた。ヨーロッパ人及びアフリカ人の奴隷商人が戦争などで狩集め、ヨーロッパ人に購入された黒人は奴隷船の船倉に積み込まれ、新大陸等の市場へ輸送された。奴隷船船倉の条件は過酷であったので市場に着く前に命を落とす黒人もかなりの割合にのぼった。奴隷市場では商品として台の上に陳列され、売買された。彼ら黒人奴隷は人格を否定され、家畜と同様の扱いであった。軽い家内労働に従事できる者や奴隷身分から解放される者はごく少数だった。こうしたヨーロッパ人による奴隷制度は、1888年にブラジルが奴隷制度を廃止するまで続いた。こうして奴隷労働に支えられて成り立った世界的な商品がサトウキビと綿花であった。「新大陸」での極度に集約的な大量生産のために奴隷が好都合だった。

北米[編集]

初めて白人の小学校に通ったアフリカ系アメリカ人「ルビィ・ブリッジス(6歳)」(1960年)

アメリカ合衆国は領土拡大の際の邪魔者として、インディアンを徹底的に排除する政策を採った。トーマス・ジェファーソンはインディアンの保留地(Reservation)への囲い込みを推し進め、アンドリュー・ジャクソンは「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と合衆国議会で演説した。軍人のフィリップ・シェリダンの「よいインディアンとは死んだインディアンの事だ」という発言や、ウィリアム・シャーマンの「インディアンを今年殺せるだけ殺せば、来年は殺す分が少なくて済む」といった発言は、合衆国の民族浄化の姿勢をよく表すものである。

インディアン強制移住法」の違法を合衆国最高裁が認め、「インディアンは人間である」と判決文に添えたのは1879年になってようやくのことである。それ以後もインディアンは「Colored(色つき)」として1960年代までジム・クロウ法の対象とされたのである。

南米[編集]

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「インディアンとムラートがチノ(混血)を生む」という1770年の絵画

スペイン人侵入後の南米は、マヤアステカなどの征服地で彼らの国家を武力で滅ぼし、虐待・大量虐殺によって植民地支配し、インディアンインディオを差別の中に置いた。

スペイン領では、ラス・カサスらキリスト教伝道師がインディアン保護に奔走するが、これは、結果的に労働力の代替としての黒人奴隷導入につながる。近代以降も白人、混血、インディアン(インディオ)で社会階層が分かれている国家が少なくない。

アジア[編集]

黄色人種は白人社会からは卑屈で劣った人種だと思われながらも、勤勉さや教育熱心な文化が評価され、確実に白人社会に食い込んでいったこともあり、20世紀後半以降は一方的な搾取を受ける事態には至っていない。北米やイギリスなどにおける東アジア系移民の学歴や生活水準は有色人種の中にあって高く、平均して白人をしのぐことすら珍しくない。その現れとして、アメリカの大学選考においてアファーマティブ・アクションによる優遇は無く、むしろ不利に設定されている。

一方、20世紀前半のアメリカやカナダでの中国系移民日系移民の境遇をみると、苦力などの奴隷的境遇に落とされたり、また苦労して経済的地位を築いた後も黄禍論を背景とした排斥の動きに遭遇したという歴史がある。特に日系人は太平洋戦争中は市民権を停止され強制収容所に収容されるに至った。同じように米国と交戦していた他の枢軸諸国出身者やその子孫はほとんど制限をうけることはなかったため、有色人種の日本人に対する人種差別とみなされている。

日本[編集]

日本は16世紀に初めてヨーロッパ人と接触した。当時の日本人にとって白人や黒人は大変珍しい存在だったため、驚きや奇異の目で見る傾向があった。白人のことはその外見から「紅毛毛髪の色による)」「毛唐(毛深いことによる。唐は中国王朝のことで、漠然と外国全般を指した言葉)」、又は中国の言葉を借りて「南蛮人(“南方の野蛮人”の意。主として東南アジア方面つまり南方から九州や琉球に渡航してきたため)」などと呼んでいた。

江戸時代にはオランダ人やイギリス人などは紅毛人、スペイン人やポルトガル人は南蛮人と区別されることが多かった。なお、欧米で奴隷扱いであった黒人は宣教師の従者として日本に連れられてきたのが最初とされるが、日本では当時の最高権力者織田信長の従者になるという破格の好待遇を受ける(ヤスケの項目を参照)。その一方で日本人はポルトガルスペイン商人や宣教師によって奴隷として輸出された。豊臣秀吉によるバテレン追放・キリスト教禁教は、純粋な宗教の禁止・宗教への迫害ではなく、そうした情勢・趨勢への対応であった(サン・フェリペ号事件)とする見方もある。

鎖国をやめて文明開化をなしたあとでは、白人はその軍事力、科学力から畏敬の対象となる。逆に白人の世界観を受け入れたことにより、東洋人である自己認識に劣等意識を植え付けられる日本人も生まれた。

日露戦争後の日本は非ヨーロッパ系国家として唯一の列強であり、欧米帝国主義から自分たちの権利を守るため人種差別反対の立場をとることが多かった。 第一次世界大戦後のパリ講和会議では人種差別撤廃条項を提案するも、イギリス・アメリカなどの議長拒否権により不成立に終わっている。

第二次世界大戦では人種差別を国是とするナチス・ドイツ軍事同盟を結んだが、人種差別的な主張と政策には否定的非協力的であった。戦前から満州国にユダヤ人自治州を作る河豚計画が存在しており、三国同盟成立でそれが頓挫したあともドイツからの引き渡し要求には応じようとしなかった。そのため欧州から脱出するユダヤ人にとってソ連-満洲-米国他へのルートは重要なものとなっていた。しかし戦争が激化するにつれ資産不足から満州から他国へ脱出できないユダヤ人が増加したため、貧しいユダヤ人へのビザ発給を断るようになるが、人道上の理由から大量のビザを発給した外交官杉原千畝などもいる。同氏は外務省に指示を求めたが、翌日に否認。松岡洋右外務大臣にも直接求めたが、大臣本人からも否認され、「独自の判断で」裁量権を行使した。1947年に帰国後、行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)に基づき解雇されたが、妻幸子によれば、その際、口頭で「例の件」の責任を理由として告げられたと言う。杉原の死後5年経った1992年3月の予算委員会で、日本政府(宮沢喜一首相)は初めて杉原の功績をたたえた。その際、渡辺美智雄外務大臣は、「(数年間各国大使館で勤務したことなどから)杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない」と答弁し、2006年3月24日には、懲戒処分されたと言う事実はなく、杉原本人が「昭和22年6月7日に依願退職」したとする答弁書を閣議決定した。

人種差別撤廃への試み[編集]

人種差別撤廃の試みは繰り返し行われてきた。アメリカの南北戦争は奴隷解放戦争としての性格を性格の一つとして帯びていた。多くの黒人奴隷に経済基盤を支えられ、奴隷解放に反対していた南部の各州が敗れると、事実上アメリカの奴隷制度は撤廃されたが、差別は根強く残った。第二次世界大戦後の世界では、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師による公民権運動が多くのアメリカ市民に影響を残した。

第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議では、日本が「人種的差別撤廃提案」を行なった。イギリスとオーストラリアが強く反対する中で採決が行われ、結果11対5で賛成多数となったが、議長のアメリカ大統領・ウッドロウ・ウィルソンが例外的に全会一致を求めた為、否決された。
詳細は 人種的差別撤廃提案 を参照

2001年、南アフリカのダーバンで開催された「国連反人種差別主義会議」(WCAR)では、南半球の国家代表たちによる人種差別、植民地主義、大西洋横断の奴隷売買、およびシオニズムに対する人種差別非難が相次いだ。会議はパレスチナ人の権利保護要求と、シオニズムに対する満場一致の非難によって決議した。米国とイスラエルの代表団はこれに猛反発し、決議をボイコットした。

2009年4月20日からスイスのジュネーブで開催されたWCARでは米国とイスラエルに加え、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、イタリア、スウェーデン、ポーランド、オランダがこれをボイコットした。

人種差別撤廃条約[編集]

  • 1963年 国際連合が人種差別撤廃宣言。
  • 1965年 国際連合が「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を採択。
  • 1969年 条約が発効。
  • 1996年 日本で条約が発効し、当事国となる。

民族差別[編集]

日本語では、「同人種」の異民族に対する差別を人種差別ではなく民族差別と呼ぶこともある。しかし、国際法上や英語圏などでは日本で民族差別と呼んでいるものも「racism(人種差別)」の類型として扱うことが多い。なお、生物学上「人種」間に遺伝子の傾向上の違いはあっても明確な差異はなく、人種概念は科学的に否定される傾向にある。

参考文献[編集]

  • 岡本雅享 監修『日本の民族差別』人種差別撤廃条約からみた課題 明石書店 2005年6月 ISBN 4750321397
  • 金静美『水平運動史研究』民族差別批判 現代企画室 1994年1月 ISBN 4773893125

関連項目[編集]

  • 政策・思想
人類館事件 - 不可触賎民 - アパルトヘイト
ナチズム - ネオナチ - 反ユダヤ主義 - アーリアン学説 - 名誉人種
アメリカ合衆国の人種差別 - ヘイトクライム - 白人至上主義 - 白豪主義
有色人種 - カラード - 選民
中華思想
  • 人物
ネルソン・マンデラ - マハトマ・ガンディー
  • 差別
性差別 - 種差別 - 年齢差別

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